起業家の風景(エッセイ) 起業家の風景 一覧へ

2006年8月28日 (月)

家族人 先祖のルーツを辿る旅 - その1:曾祖父の生きた道

買ったばかりのピカピカのアルファードの後部座席に子供5人を縛り付けて、軽井沢から、山形に向けて出発した。車が動き出すとすぐに、後にいる子供達に、今回の旅行の目的を説明することにした。

ハンドルを握りながら、顔を斜め上に向けて、後ろにいる子供達に語りかけた。
「今回の旅は、堀家の先祖のルーツを辿る旅です」
重みをつけるために、敢えて敬語を使って説明することにした。

「今から、軽井沢を北に向かい、群馬県から新潟県に入り、長岡市で一泊します」。
「翌朝、日本海に沿って新潟県を縦断して、山形県の鶴岡市に入ります。そこで、パパのひいおじいさん、つまり、皆さんのひいひいおじいさんにあたる人、が生まれた土地に行き、先祖のお墓参りをして、日本海に面した温泉宿で泊まります」。

「翌朝日本海で海水浴をしてから、ひいおじいさんが敷設した水路と開墾した田んぼを見て回ることにします。山形市の近くで、最後の一泊をしてから、宮城県を経て高速道路にのって東京に帰ります」。

「今回は、おじいちゃんとおばあちゃんと、パパのおばさん夫婦も一緒に旅をしますので、いい子にしていてくださいね」、と締めくくった。「わかりましたか」と念を押すと、子供達からは、「は〜い」と分かったような、分からないような返事が返ってきた。

これからは、長旅である。しかも山道が多い。のんびり運転しながら、「先祖のルーツを辿る旅」に行き着いたプロセスを振り返ることにした。

僕は、今年の初めから、無性に先祖のルーツを知りたくなったのである。特に気になったのが、僕の祖父の父親(つまり曾祖父)である。祖父に関しては、拙書の「吾人の任務」にも触れている通り、僕が9歳になるまで生きていたので、当然会ったこともあるし、身近な存在ではある。

ところが、曾祖父に関しては、名前すら知らないし、どこの出身かもわからなかった。父親に問い合わせてみて、やっと名前が、堀卯三郎(うさぶろう)ということがわかった。その程度であった。

そこで、親戚中にメールを打ち始めた。卯三郎の子供は、既に他界していたので、卯三郎の孫にあたる方に重点的に尋ねてみた。その結果、卯三郎の子供達の伝聞を記録していた方々からメールをもらい始め、卯三郎の生きてきた軌跡がだんだんとわかり始めたのである。

資料も多いし、デジタル化されていないものもあったので、卯三郎の孫にあたる方々を一堂に会する機会もつくった。グロービスまでご足労頂き、会議室で昔の資料や写真を広げながら、夕食のお弁当を食べながら、ルーツを皆で確認しあったのである。

まさに会議である。そして、言い伝えと現存する資料を総合すると、以下の様な人生が浮かび上がってきたのである。

・卯三郎は、明治維新の前年の1867年7月6日に鶴岡藩(現在の山形県の鶴岡市)に生まれた。父東順(1829-1882)と母かね( 1835-1918.5.23)の三男であった。堀家は、代々鶴岡で、町医者を営んでいたらしい。

・16歳の時に、父東順が亡くなったので、その後卯三郎は歩いて東京に出てくることにした。途中で、最上川のそばの荒地を見て、水をサイフォンでくみ上げて開墾することを思いつき、「今にお金が出来たらやろう」、と心に誓った。

・東京では、兄、義水(ぎすい)の家に世話になり、経済学とドイツ語を学んだ。兄嫁がいじめたので、「刺し違えて死のう」と思ったこともあったらしい。

・下谷教会に通い始め、信者になって救われた。1886年、卯三郎20歳の時に、下谷教会で洗礼を受けた。

・1893年、卯三郎27歳の時に、婦人伝道師として、『うた』が下谷教会の日曜学校に派遣されてきた。オルガンを弾いていた うた に、卯三郎が声をかけたのがきっかけで、二人は付き合い始めた。

(義人注)「やっぱり出会いはナンパか。僕は、その血を明らかに引き継いでいるなあ」。

・1895年11月6日に29歳で結婚。1896年に長男、義路(よしみち)が生まれる(この義路が僕の祖父にあたる人である)。その後、二年おきか三年おきに子供が産まれ、二男・五女の7人の子宝に恵まれる。最後の7番目の子供の誕生は、卯三郎が44歳のときであった。

・卯三郎がうたと結婚した時、卯三郎は貧乏で、信玄袋一つだった。中身はしらみがいそうに汚かったので、うたは全部煮沸消毒した、と伝えられている。

(義人注)「つまり、山形から出てきた町医者のせがれが、東京に出てきて経済学やドイツ語を学び、教会でナンパして、結婚したのだ。当初は相当貧乏だったらしいが、そこから卯三郎のベンチャーが始まるのである」。

・卯三郎は、先ず始めに大崎で日本鉄工合資会社を創り、資産を形成する。

・その後1909年、卯三郎が43歳の時に、更なる挑戦をする。故郷山形に錦を飾るべく、山形県最上郡舟形村に、三光堰(さんこうぜき)という、水路を建設し、その周辺の荒地の開墾事業を始めるのである。

・この三光堰という名前は、卯三郎がその当時住んでいた芝区白金三光町の名前からつけたのであった。この事業は成功し、徐々に周辺地域で稲作が始まったようである。

・その間、福沢諭吉との縁もあり、その関係者からの出資金があったようだ。

(義人注)今の時代のベンチャー・キャピタル事業か?

・妻うたの長兄、潮田伝五郎が、福沢諭吉の五女である光(みつ)と結婚したことで、卯三郎と福沢諭吉とは、縁戚関係となったのである(福沢諭吉は、卯三郎の義理の姉の父親となる)。

・1920年、卯三郎54歳の時には、中目黒に豪邸を建てるにいたっていた。土地800〜1000坪くらい、家130坪、部屋は16部屋あった。家は近所から目黒御殿と呼ばれていた。竹やぶがあったので、関東大震災の時に(地割れがしないので)近所の人たちが避難した。テニスコートもあった。

・1923年の暮れ12月20日、卯三郎57歳の時に、他界する。そのとき、長男の義路(僕の祖父)は、英国ケンブリッジ大学に留学中で、帰国間近まで父親卯三郎の訃報に触れなかったという。

(義人注)卯三郎は、ベンチャー起業家で、ベンチャーキャピタル事業的なものも営んでいた。その息子の義路は、後に慶応大学工学部の前身の藤原工業学校長でもあった。

卯三郎の曾孫、義路の孫に当たる僕は、起業家として、ベンチャーキャピタル事業を営み、大学院を創設し学長に就任している。これも、一つの縁であろうか。

ここまで調べた僕は、いても立ってもいられなくなり、鶴岡に向かい、卯三郎が16歳の時まで見てきた原風景に触れて、先祖の墓前に手を合わせて、卯三郎がつくった水路と開墾した土地を見ることとしたのである。

アルファードは、万座スキー場に向かう交差点を右折して、水上市に向けて吾妻川沿いの谷間の国道144号線を東に緩やかに進んでいった。水上から関越自動車道を北上して、新潟に向かう予定であった。

早朝に軽井沢を出て、旅の中継地点でもあった新潟県の浦佐に着いたのは、昼の13時を過ぎていた。

2006年8月25日
山小屋にて
堀義人

トラックバック(0)

この記事のトラックバックURL :
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/45572/48022919

コメント(11)

  • 初めてコメントさせて頂きます。
    京都の傳來工房の橋本と申し上げます。

    私は堀さんと神田さんの対談CDを毎朝出勤の車中で聞くのを日課としており、今回のブログは興味深く読ませていただきました。

    特に堀さんが現在まで展開されてきた事業とご先祖が多難の中で成功された当時の事業が連動するお話は、まるで曾々祖父さまや歌さん、諭吉などが出てきそうなリアルな感覚で読ませていただきました。

    そしてそのルーツを5人のご子息で伝えるべくこの夏休みに堀一家で山形まで訪ねていくお話は、まさしく堀家のバック・トゥ・ザ・フューチャー(チョット古いか・・)と言えますね。
    こらからが楽しみです。第2章も期待しております。

    私とスタッフが書いているブログももしよかったらお寄りください。
    http://www.denraikohbo.jp/bronze/index.html

    投稿者: 橋本 昇

  • わくわくして読ませていただきました。やはり祖先がいて自分がいると思うと、力が湧いてきますよね。守られているというか、自分もそれ以上のことをやろうとか。

    ところで、2050年までに、再生可能な社会にしないと地球は、人類の生存にとって、取り返しのつかないことになりそうです。
    私の心配はその一点です。

    私もできるだけのことはしたいと思いますが、是非掘さんにも、鶴岡を開墾したご祖先のような、人類のためにさらなるご活躍を期待します。

    投稿者: 片貝孝夫

  • 堀覚太郎氏の生年を調べています。google検索でtopにこのページが出ました。ご存知でしたら教えてください。
    覚太郎氏は京大の機械科の教授を経て日本エレベーター製造の常務をされた人物です。没年は昭和5年のはずです。

    投稿者: 三井宣夫

  • 日本の熱い諸々の8月も終わり近くになりました。
    ご先祖のル-ツ探訪、ご供養は、お子様方にも、かけがいの無い思い出になるでしょう。大変に良い事を実行されました。おおいに、感心させて頂きました。また、できるだけお墓を守るようにしょうと思いました。さて、長岡の印象は、意外でした。進取の気風が、古き事象を好まないのでしょうか?わたしも、同じようなル-トで訪問したくなりました。いつもながら、率直なレポ-トなので、楽しく、同乗している様に読ませて頂いて居ります。
    暑さの折、ご健勝をお祈りします。坂本晃康 拝

    投稿者: 坂本晃康

  • 楽しく読みました。
    IBM時代にアメリカ人の上司のあいだで、自分のルーツを探る旅をするのが流行っていました。基本的に、彼らはヨーロッパからの移民でしたがお父さんや、おじいさんあたりで ヨーロッパの社会問題を抱え,新天地を求めてたくましい先祖がアメリカに渡ったということを学んでいて、そういう話を聞かされて欧米とは同根であることを思い知らされた経験があります。

    また、アメリカの小学生の歴史の授業では、おじいさんや おばあさんの話 を聞いてくる宿題をだして、そこから 世界大戦の授業を初めて、現代から昔へと授業をすすめると歴史が身近になって子供達がよく勉強するという話も合わせて聞きました。

    翻って 日本教育では、縄文時代からはじまって わざととしか思えないやりかたで小学生、中学生、高校時代の授業で、近・現代史が授業で省かれ、第一次世界大戦から第二次世界大戦のあたりの日本の見解は 教科書を読んどけ、というくらいで試験に出される事もなく、ましてや自分のおじいさんや、ひいおじいさんが、その世界大戦でどういった役割の仕事をしたのかを、学校では話題にするのがタブーであるような雰囲気のなか、祖先を大切にするという気持ちも 現代社会では薄れているような気がします。

    投稿者: YN

  • 歴史を振り返る、自分のルーツを探すことで、良し悪しは別にして、自分の「歴史の中での立ち位置」を確認できると思います。
    それは自分と社会との繋がりを再認識させ、周囲への感謝の気持ち、謙虚な気持ちを呼び起こす一方で、自分の行動や認識にバイアスがかかることもありえるでしょう。

    僕の3代前は北海道の小樽の辺りにいたようですが、既に音信は取れず、ルーツを確認できずにいます。おそらく明治政府の政策に従って地方から出てきた開墾団の一人で、堀さんのような華々しいものではないと思います・・。

    また、「先祖」と言えば、小学生の頃に「僕にすごい先祖がいたらなぁ(きっと誇りを持てるのに)」と父に話した時、「お前が、すごい先祖になったらいいじゃないか」とあっさり言われたことを思い出します。

    「生きる」ということを、自分の人生の期間だけで考えるのではなく、過去から未来へと繋がる過程のひとつと捉える視点を持つこと自体に意味があるのかもしれませんね。

    投稿者: 富田 洋史

  • 私は、大阪校で、三年ほど前に人的資源管理を受講しました。その後、宇宙からの声が聞こえてマクロビオティックを習得していました。その時、私は大阪校のパーティで堀さんの足の違和感を指摘して、マクロビオティックの本として久司道夫先生の「マクロビオティック健康法」を推薦しました。アマゾンで注文すると言われていましたが・・・・・

    今年になって大阪校で4月期はクリシンを受講して、7月期は経営大学院の単科生としてOBHを受講しました。今は、マーケティングを単科生として受講しています。

    血縁のルーツとは別で、堀さんは、ギリシャ・ローマ時代の都市国家で生活していた記憶はありませんか?

    投稿者: 赤井 公夫

  • 祖父 堀 義路さまが藤原工業大學の學長をなさってをられた旨の記述を拝見。
    藤原工業大學々長は創立時から慶應義塾大學藤原記念工學部となった昭和十九年八月まで 終始 小泉信三慶應義塾塾長が兼務なされてをられ、工學部長は 海軍造兵中將 谷村豊太郎工學博士が創立時から 昭和二十年十二月まで勤めてをられます。
    従いまして 堀 義路さまが 藤原工業大學 學長ないしは
    工學部長であった事實はありません。

    ちなみに藤原工業大學理事長は 藤原銀次郎先生であり
    専務理事は 槇 智雄先生でした。

    以上 念のため。

    投稿者: 渡邉 龍一

  • 渡邉龍一様

    ご指摘ありがとうございます。m(__)m
    調査の結果、以下判明しました。

    祖父 堀義路は、20代後半に北大教授に就任し、藤原銀次郎氏の招聘を受け、藤原工業大学と一体で運営されていた藤原工業学校の校長に就任し、慶應大学工学部発足時の中心メンバーの一人として活躍しました。 

    多少誤解を招く表現があったかと思いますので、本文を含め訂正しておきます。

    投稿者: 堀義人

  •  私の曾祖父も鶴岡藩出身らしいのです。名前は白旗重太郎、明治元年当時はもう13,4歳だったはずです。父によると函館で道庁の役人をしていたとか、妻か母が家老の娘だったとか、そのくらいしかわかりません。昭和8年に亡くなっています。
     もしかしたら面識があったかもしれませんね。

    投稿者: 旧姓白旗

  • 小生72歳になります。実母96歳で現在東京で健在です。母の出身地は正しく山形県舟形町福寿野です。私の従弟(母の実弟の長男)が福寿野で現在専業農家を営んでいます。
    祖父(母の実父)は現在の東京農大で農業土木を学び、福寿野に帰り「三光合資会社」で、当該「三光堰」の建設に従事していたそうです。
    先日も東京に行き、当時の祖父の苦労話を聞かされました。その話の中に、「今日は東京から堀さんが見えるから・・・」と祖母に言って現場に出て行く姿を母は私に語ってくれました。祖父は昭和37年10月4日に他界しましたが、私も戦時中に疎開していた関係もあって祖父によく「三光堰」の話を聞かされました。最近になって時間もできましたので、母の話を基に、従弟と共に先祖のルーツを溯ろうと考えてpます。

    投稿者: 国分敏和

コメントを書く

お名前
メールアドレス 本サイト上には掲載しません。
URL
コメント本文(必須
コメントは管理者が公開するまで表示されません。
不適切な発言は、管理者の判断において削除することがあります。

はじめに

「起業家の風景/冒言」一覧

起業家の風景 最新コラム

起業家の冒言 最新コラム

メールマガジン配信

著書

グロービス 事業紹介