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2010年2月19日 (金)

政治・社会 社会起業家vs起業家

ツイッターでつぶやいているうちに、オピニオン的に自分の考えをまとめてみたいものが出てくる。140字では、とても考えをまとめきれない。そこで、議論の発端をツイッターで「つぶやき」、その後は、ブログにまとめる、という作業を行うことにした。

そのつぶやきを二つ紹介しよう。

「素朴な疑問だが、日本の企業は、そもそもが社会貢献を目的に作られたものと思っていたのに、なぜ敢えて『社会起業家』として括る必要があるのか? 株式会社という器を使うと、社会貢献を考えていない『金儲け』と看做されるのか?分けることにより、区別や優劣が生まれるような気がしている」。

「グロービスは、NPO法人などが無いときに始めたので、株式会社を器として使った。一昨年学校法人に転換した。だが、全く意識を変えていない。そもそも良い人材を育成したいという思いで始めたからだ。そういう僕は『社会起業家』なのだろうか、それともただの起業家か」。

僕は、「社会起業家」という言葉が出始めたときから、何らかの違和感を抱いていた。その違和感が何なのかをずっと考えていたのだが、その理由に先日気がついたので、ここで紹介することとする。上記「つぶやき」と重複があるかもしれないが、次のとおり、まとめてみることにする。


(1)そもそも日本の企業そのものが、社会貢献をもとに作られていることが多いのに、なぜ敢えて「社会起業家」という言葉を使う必要があるのか?基本的に、「社会起業家」は、欧米から入ってきたコンセプトである。日本は、渋沢栄一さんの時代から、「ビジネスを通しての社会貢献」という考え方が根付いている。欧米型のビジネスと日本でのビジネスへの捉え方が違うのに、欧米のものを輸入すればいいとは思わない。

逆に、社会起業家と起業家を分けることによって、区別・優劣が生まれる。「私は、社会起業家ですから金儲けはしない」的な雰囲気を感じるのである。そこに違和感を抱いていたのである。ご本人も「社会起業家」と呼ばれることに抵抗感を感じているように、バングラデシュでバッグを作ろうが、中国で作ろうが、そもそも同じだと思う。株式会社で教育を提供しようが、学校法人で提供しようが、大差は無いと思う。


(2)そもそも、日本の美徳は、「陰徳」である。良いことをしても、基本的にはその良いことをおおっぴらには、言わないのである。寄付をしても、ボランティアをしても、あまり多くを語らずに、「大したことをしていないので」として控えめにするのが、美徳であったはずだ。

それを、「私は、社会起業家です」と言って、「良いことをしています」のような形で暗に公言しているのにも違和感を持っていた。そうなると、「株式会社は、良いことをしていないのか?」と反感を抱くのである。


(3)更に、社会起業家のビジネスモデルが、ボランティアや安い給料を前提としていて、規模が小さいものが多いことにも気になっていた。つまり、良いことをしているという気分を得ることの代償として、比較的安い給与やボランティアの労働を前提とし、ビジネスモデルが作られていることが多いように感じていた。これでは、長続きしないし、社会に良い意味での大きなインパクトを与えられない。社会に本当に良いことをしたいのであれば、規模を大きくして、永続的なビジネスモデルとすべきなのではないか。


(4)一番、気になるのは、そのような社会起業家の事業が、通常の民間業務とバッティングする場合である。介護であったり、教育であったりすると、NPOで提供するものと株式会社で提供するものとがバッティングすることもある。それであれば、株式会社として規模の追求と永続的モデルにすべきではないかと思う。ただ、一方では、規模と永続性を追及すると「社会起業家」とは、呼ばれなくなってしまうような雰囲気がある。

一昨年だったか、インドのマイクロ・ファイナンスの会社が、世界経済フォーラムで何らかの賞を得た。その受賞者が、「大手銀行から支援を得て、これからIPOをしようと考えている」と言ったときには、ビックリした。マイクロ・ファイナンスと消費者金融の境は何だろうか?社会起業家と起業家の境など、そもそもつくりにくいのではと思えた。

一方では、社会起業家として、本当に良い貢献をしている事例もあるのは確かである。話を聞くだけでも、涙が出てくるほど感動する方もいる。僕は、社会起業家として一番良い事例は、株式会社では実施しえない領域にあると思っている。たとえば、NGO的な奉仕・寄付活動を仕組み化しているモデル(ミャンマーにおける井戸への寄付集め、カンボジアにおける寄付・奉仕活動、さらにはTABLE FOR TWOのようなモデルや、Teach For Americaのような教育を仕組み化する方法論などである。

僕のような、良い人材を育てたい、という気持ちで大学を作ったとしても、それは「社会起業家」とは呼びたくないのだ。僕は、起業家であることに誇りを持っているので、そのまま起業家で生きていこうと思っている。


今後、このようなオピニオンをまとめたものを、「起業家の冒言」として、「起業家の風景」とは、分けて整理することにしたい。


オピニオンですので、是非皆さんの異論、反論を伺いたいと思います。


2010年2月19日

堀義人Twitter@YoshitoHori

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コメント(13)

  • 堀さん

    大変ご無沙汰しております、学生時代にお世話になりました、後藤宗明です。昨日、鳩山首相が面会されたビルドレイトン氏の米国の社会起業支援組織、Ashokaの日本立ち上げのお手伝いをしております。

    堀さんの書かれていたこと、おっしゃる通りだと思います。

    ただ1点だけ。2000年冬にHarvard Business Schoolで初めて、Social Entrepreneurshipの講座を始めたときに、社会起業家は、

    「社会問題をビジネスのアプローチで解決する」

    であったように記憶しています。細かいようですが、

    「社会貢献をビジネスで」

    ではなく、

    「社会問題をビジネスで解決」

    と捉えると、放置されている社会問題を放っておけず、結果として「起業家」が見向きもしないようなニッチマーケットに、責任感からアプローチする社会起業家がいる、ということの意義も再認識して頂けるのではないか、と僕は思っています。

    後藤

    投稿者: 後藤宗明

  • 僕は企業に務めるただの従業員で、起業家でも社会起業家でもありません。

    ただ、「社会起業家」という言葉は、起業家に対してではなく、「営利のみを追求した企業家」に対するアンチテーゼではないのでしょうか?

    すなわち、「社会起業家」という言葉を通して、企業の営利のみをクローズアップした昨今の状況に対し、堀さんの仰るところの「起業家」という本来の理念への回帰を促していると考えています。
    言葉の捉え方は、時代と状況により意味が変質していくのです。
    以上が、僕の視点から見る「社会起業家」の捉え方です。

    堀さんは『日本は、渋沢栄一さんの時代から、「ビジネスを通しての社会貢献」という考え方が根付いている。』はと仰いますが、その思想が企業で働く従業員の隅々まで行き渡っているとは、とうてい思えません。どうも、現状を鑑みるに、建前論にしか聞こえないのです。

    したがって、「社会起業家」vs「起業家」という構図としてとらえる必要はなく、「社会起業家」と「起業家」vs「私益のみを追求する企業家」として、この事象を捉えた方が良いのではないでしょうか?
    つまり、堀さんの考える「起業家」と世間で考える「起業家」の認識に対してズレがあるのではないかと考えた次第です。

    自分の意見が未熟な事は承知していますが、Twitter が議論の質を高めるきっかけになるのではないかと思い、あえて意見を述べさせていただきました。

    投稿者: 林 俊樹

  • 1読者として、そしてNPOについて2年間学び、いくつかのNPOに関わった人間としての意見です。

    >社会に本当に良いことをしたいのであれば、規模を大きくして、永続的なビジネスモデルとすべきなのではないか。

    ここは少し違和感があります。


    堀さんのおっしゃっている社会起業家というくくりのイメージがよくわかりませんが、基本的にNPOは、比較的小さな範囲の社会問題に取り組み解決する、のに適したモデルで、本来なら行政が手をつけるべきところだが、手をつけきれておらず、それを市民が自ら助けあおうよ、というのが前提になっています。

    なので、地域社会の課題が多いことと地域のボランティアが組み込まれたモデルなので、そもそも規模を大きくする、というのは目的ではないですし、また究極的にはその課題が解決されて組織の自己消滅が目標となるので、そもそも永続的に稼ぐということを前提にするならば株式会社で行うべきであるとも思います。また、規模が小さかったら、本当に良いことといえないのか、とも思ってしまいます。さらに小さくてもアドボカシーとして社会にインパクトを与えることはできます。

    形態については、私の理解では、支援性の色合いが強いものはNPO(つまり、サービスを受けるヒトが対価分のお金を払えないような、ホームレス支援や恵まれない子供支援、海外援助、など)で、対価分のお金を払えるものは株式会社の形態で行うべきであるということです。(だからNPOのモデルは、助成金や補助金、寄付金、そしてボランティアなど資源調達をすることも非常に大事です)

    但し、残念なことに今の日本の現状は堀さんのご指摘どおり、本当にNPOという器を使って安い給料でヒトを雇い株式会社と競合する、というようなモデルが存在しているため、そういう誤解が多いことも事実だと思います。

    いずれにせよ、NPOという形態では、今の日本ではいろんな限界があり(私の理解では、スタッフが3人未満ぐらいが最も効率の良い状態)、十分に理解し覚悟した上で飛び込むもので、安易に飛び込むものではないというのが私の結論です。(キャリアを積むためにプロボノとして働くのはよいかもしれませんが・・・)

    昨今の日本では、NPOのことをきちんと理解せず社会起業家という言葉が一人歩きしているような印象があり、そのあたりが問題だと個人的には思います。

    投稿者: 村尾佳子

  • 自分は社会起業家という言葉に影響を受けており、これからの社会において非常に重要な存在だと考えています。しかし一方で、堀さんの意見にも賛同する部分が多いです。

    林さんが書かれているように、「社会起業家」という言葉自体が、利潤のみを「目的」とした事業に対するアンチテーゼとなったことは事実だと思いますし、それが多くの方に、様々な良い刺激を与えているのは疑いがありません。個人的にも、明確なコンセプトを表す、良い言葉だと思います。

    ただ、この語られ方には、危険もあります。
    堀さんが書かれているように、企業が手がける多くの営利事業もまた、社会の問題を解決するためのものだからです。

    社会起業家が、民間企業の対立軸で自分達を語り、それを聞いた多くの方々が「利益だけを目的にするのが大多数の起業家、社会のことを考えるのが社会起業家」と捉えるようになったら、結果的に、社会にとってはむしろマイナスです(今回のブログの表題は、まさにその危険性を指摘されている意図だと思います)。
    社会の大多数の人は営利企業に勤めて糧を得ているわけですから、自分も含めそうした方々が、「自分も社会問題を解決している。社会起業家だけが、問題に向き合っているのではない」と捉え、よりそれについて考えを巡らすようになることの方が重要ではないでしょうか。

    実際、最近は「世の中の問題を解決したいから、社会起業家になりたい」と考える学生さんも少なくないようです。それは良いのですが、本来なら「○○の問題を解決したい」という「目的」があり、そのための「手段」として営利事業の起業や、NPO設立などの選択肢が出てくるはず。なのに、「社会起業家になる」というのが「目的」として語られるあたりに、自分は違和感を覚えます。
    かくいう自分も、学生時代は社会起業家になりたいと思っていました。しかし実際に営利、非営利それぞれの組織で働いてみて、これは手段の違い、アプローチの違いでしかないと感じるようになりました。

    投稿者: 倉部史記

  • twitterも拝読しました。私自身は、日本の社会システムと米国の社会システムを引き比べることで、なんとなく整理しています。そもそも「社会起業家」というコンセプトは、資本主義を強烈に押し出し、ある種、過度に株主至上に寄ってきた主に1990年代の米英でフィット感が高かったのだろうと思っています。企業はまず営利を追求し、社会的責任は、そのトップらの寄付(ビルゲイツの財団のような)によって果たすというシステムを組み上げてきた。その寄付の行き先として、普通の企業以上に高い収益を上げ、永続的かつシステミックチェンジを起こすことを希求する、例えばナショナルジオグラフィクスやボディショップのようなNPOが台頭してきた。社会全体で見たときには、「カネを稼ぐ企業+その利益を吸収しながら社会問題を解決するNPO」という構造がきれいにできていたように思います。そして、その構造は、キリスト教の「富は祝福」とし、一方で「平等と均衡的分配」を唱える倫理観とも、重なり合う部分が多いように感じます。ところが、エンロン以降のCSRへの意識の高まりによって、また、NPOが効率的運営のためにビジネスの手法をどんどん取り入れはじめたがために、2000年代に入ってから企業とNPOの差異が見えづらくなってきた。堀さんが最初に書かれていた、「起業家」と「社会起業家」の区分は、米国にはもしかしたら厳然とあり、「三法よし」を当初から目指してきた日本において違和感を持たれる起業家が多いのは、そのあたりに起因するのでは?と思ったりします(その意味では、マザーテレサはごく初期の寄付をよりどころとする社会起業家なのだと思います)。一方、日本における小規模のNPOは確かに「社会起業」というより、「社会奉仕」の位置づけになるのだと思いますが、これについてはムラ社会の延長上にある、ごく自然な援け合いなのでは?と考えたりする次第です。走り書きで、うまく言葉になっていない気もいたしますが。

    投稿者: 加藤小也香

  • 私は、起業家というのは、最終的には、社会貢献にその存在意義があると思っています。逆に、社会貢献に向かわなければ、市場から「存在価値なし」とみなされ、消えていくものだと思っています。社会貢献なしには、事業の永続性も、規模拡大も、利益も成立しません。

    では、すべての起業家は、社会貢献を考えて、起業するのか?ということですが、私は、最終的には、そうであると信じています。ビジネスを通して、社会に何かしらの価値を提供して、社会をより良くしたい、という野心を持った者を起業家と呼ぶのだと思っています。

    もし、NPOを立ち上げた人や、非営利のポリシーを掲げた事業家を「社会起業家」と呼ぶならば、それは、「起業家」という言葉ではなく「社会奉仕家」とか、「社会活動家」と言う方が、しっくりくるのではないかと思います。そう考えると、村尾さんがおっしゃっていたNPOの解釈「そもそも規模を大きくするのは目的ではなく、究極的には課題が解決されて組織の自己消滅が目標となる」というのは、非常に理にかなっており、「なるほど!」と腹落ちしまた。

    語感の問題だけかもしれませんが、そもそも「起業」という言葉には、永続性や規模の広がり、収益性といった経済活動における要素が、宿命として包含されているように感じます。そして、それらの要素は、すべて「事業の社会貢献性」に応じて得られるものではないかと思います。従って、起業をわざわざ「(通常の)起業」と「社会起業」に区別すること自体に違和感を覚えます。

    そうは言いつつも、自分のことを振り返ってみると、実際には、最初からそのような社会貢献性を掲げていたわけでは全くありません。起業当初は、むしろ、私的な欲望も大きかったです。しかし、事業を維持継続する中で、子どもが大人に成長するように、私的な欲望は満たされ、だんだん社会性(社会に向けた想い)が膨らんでいきました。そう考えると、起業した当初の私は、起業家とは、到底言えません。そんな私でも、企業理念を醸成し、明確化する段階になって、「私と会社」「社員と会社」から「社会と会社」という見方になり、少しずつ、本気で「社会貢献」を語り、青臭いことを、真面目に語るようになっています。

    起業当初の私は、世間で言うところの「起業家」で、私が目指す未来の私は「社会起業家」ということになるのかもしれません。 でも、私という人間は、一人ですので、やはり、そのような成長を含めて、起業当初の私も、今の私も、未来の私も、私の事業が存続する限り、私は「起業家」でよい気がします。何も、社会起業家に変わる必要はないと思います。

    つまり、起業家というのは、事業の維持継続を通して成長し、最終的には「社会貢献」に向かう存在です。もちろん、中には、志半ばに、事業が社会から必要とされなくなることもあると思います。舵取りを誤り、事業が消滅することもあると思います。でも、真の起業家は、同じテーマをひっさげて、またチャレンジするのではないでしょうか。そして、その時は、すでに自分の中で熟したステージからスタート出来るのだと思います。

    ですので私は、私利私欲に走る起業家も社会貢献を考える起業家も、すべて同じ「起業家」と呼べばいいと思います。起業家が起業家であり続ける限り、最終的には、社会貢献に向かい、その中で永続性や利益、規模の拡大などを実現していくのだと思います。

    投稿者: 廣島 大三

  • 『人々が望んでいること』-『政府・企業ができること』=『社会起業家のすべきこと』

     私は上記の単純な式で社会起業家の仕事を定義しています。本来、社会起業家がやるべき仕事の範囲は限定的です。しかし、2つの理由で社会起業家はボーダーを超えて、通常の民間業務に浸食してきます。1つ目の理由は境界線がハッキリしていないから。2つ目の理由は社会起業家が自身で業務の伸縮を制御できていないから。
     堀学長同様、私も「社会起業家」という括りに違和感を覚えていたのですが、多くの社会起業家と会ううちに違和感が消えました。社会起業家もグロービスの生徒さん同様に成長途上です(私もですが・・・)。社会起業家と呼ばれる人たち自身が社会貢献とお金について考え、自分なりの答えを出し、また考える、というプロセスを現在進行形でしている印象を受けます。
     社会起業家と呼ばれてる人たちが好んで使う言葉に「チェンジメーカー」という表現があります。世界のパラダイムが大きく転換する今だからこそ、社会をより良い方向へ変革する「チェンジメーカー」になりたい、と考える社会起業家が多いからです。彼ら彼女たちは自分ことを「社会起業家」とは言わず、「チェンジメーカー」、「ソーシャルアントレプレナー」という呼称を好んでいるように見受けられます。そもそもアメリカから輸入した「ソーシャルアントレプレナー」の邦訳がイマイチな気がします。「社会起業家」は単なる直訳で、余計な誤解を生む原因になってる気がします。
     堀学長がご指摘されている低賃金労働とボランティアに依存したビジネスモデルは大きな問題です。加えて政府の補助金を前提にしたビジネスモデルも極めて大きな問題だと思います。また、NPO理事と営利企業経営者の兼業も問題だと思います。
     社会起業家というキーワードは今バブル期に入ってます。それゆえ、打算的な言動も散見されます。しかし、社会を変革する可能性の一つとしてソーシャルアントレプレナーたちを暖かく見守りたいと私は思います。
     
    2010期GMBA

    投稿者: 石倉茂

  • 面白く拝読いたしました。

    かつての私は「社会起業家」を目指していたし、僭越ながら「社会起業家」を名乗ったこともあります。が、現在なんとなく気が引けるというか、こっぱずかしいというか、自分から「社会起業家」を名乗ることも、目指したいということもなくなりました。

    おそらく「社会起業家」という言葉の中に感じる、ビジネスパーソンのアンバランスさを感じざるを得ないからかもしれません。それは「利益至上主義」の起業家に感じるアンバランスさと似ていると思います。

    残念ながら私がこれまで出会ってきた多くの「社会起業家」なる人たちが、社会貢献にのみ目が向いていて、それ以外の重要なステークホルダーである従業員や取引先、株主・債権者というすべての人たちがハッピーになれる仕組み構築にまで踏み込めていない気がするのです(もちろん例外もいるし、世界的に著名な社会起業家はそうでないのかもしれませんが)。社会にいいことをしているぞ、ということを言い訳として、安い給料でしか人を雇わない、投資家に対するリターンをないがしろにする、債権者に対する説明責任を果たさない・・・など、一般的なビジネスの世界では当たり前のことが「社会起業家」と名乗ることで免罪されるかのような錯覚が私には気持よくないのです。株主利益だけを追求していた企業がバランス感覚を失っているように、社会貢献だけでしか存在していない組織というのも同じようにバランス感覚を失っているのだと思っています。

    お客さん(社会)はもちろん、従業員、取引先、株主・債権者の誰か一人でもハッピーでなければ、その組織は永続的に続かないと思うわけで、そういう組織を作るのが、「社会起業家」を名乗ろうが名乗らなかろうが真の「起業家」であり、ミッションなのだと思います。

    投稿者: 鷲巣大輔

  • 私も当初、社会企業家という言葉に違和感を持ったのですが、いまはこのように考えています。

    「収益性」と「社会的問題の解決」の2軸をとります。
    1つ目の収益性は、客観評価が可能です。
    2つ目の軸はあくまで「社会的問題」の「解決」です。
    「社会的問題」が何かは事業ドメインと似ていて、切り方で大きくも小さくもなります。また容易に解決しないから社会的問題と考えるなら、何が「解決」かも客観評価が難しいです。

    一般に、企業は、収益性が確保できないと起業や事業継続ができないので、収益性の確保は必須です。
    またCSR投資とかもありますが、投資家も(リスクや成長性と合わせて)「収益性」の軸で企業を見る場合がかなりあるのかと思います。
    あえていうと、(需要・雇用・納税での貢献という社会性は前提となりますが)、2つ目の軸は明示的に持っていない場合も多いのかと思います。

    一方で、「社会起業家」が「社会的企業」を立ち上げる人とします。
    「社会的企業」は、「社会的問題の解決」を存在意義としていますので、まずこの軸を考えて事業を行っています。(とはいえ、実は「社会的企業の定義」が明確でないことも指摘されています。)
    ですので法人格は、NPO法人であったり、一般財団法人であったり、株式会社であったり、場合によっては法人格を持たないケースすらあることが昨夏の一ツ橋ビジネスレビューに書かれています。
    なぜこれで良いのかは、NPOは寄付金があったり補助金があるためです。
    「社会的企業」の場合には、自分らが考える「社会的問題」を自社の活動が「解決」に直接的に乗り出すことをアイデンティティとして組織があり、その軸において共感した人からの寄付金やそれを認めた行政の補助金の活用が事業継続のオプションとなっていると思います。
    つまり、「社会的企業」の場合には、2軸目を中心に議論を始めていて、1つめの軸が自前で成立すればベターですが、成立しない場合にはそのコストを社会が認めて負担しているという構図と思います。

    規模化や収益性の確保、あるいはマネジメントの改善はいまNPOなどの大きな課題になっています。また、堀さんのご指摘のように、企業的なアプローチや組織の強さこそが社会にインパクトを与えやすいとも思います。

    ただ、ある時点で、事業環境や社会の仕組み的に規模化がしにくい分野や収益性を高めにくい分野があることも現実かと思います。
    個別問題を丁寧に扱う必要のケースなど、多店舗展開的なアプローチでは埋もれてしまいます。

    「社会的起業」は収益性がなくとも「起業」できる可能性があり、かつ、しばらくの間は見かけ上は行きのびる可能性があります。
    社会的問題を解決しようとする組織にとっては、本当に持続可能なように、ちゃんとした売上や収益性を確保することは本当に存続に関わると思います。

    反面、そもそもはその社会的問題が解決し事業領域が消滅することこそが大切であり、(自社が強みを発揮できる)その市場が伸びたり、次々と多店舗展開できることは論理矛盾かとも思います。
    実際のところはわかりませんが、最近の貧困ビジネスでも、当初は行政の支援から漏れている方を非営利((フル)コストカバー)で支援するありがたいアイデアであったのかと思います。恐らくいまもこのようなことをされているNPOがあるのかと思います。これが様々な動機で収益性側を求める必要や、あるいはそれと同じようなことを(2つ目の軸がない)方々が流用してしまった結果、あのようなケースが発生してしまったのかなぁとも思います。

    投稿者: 高橋千里

  •   私はマイナスのサイクルをプラスのサイクルに変えるのが社会起業家だと考えています。もちろん、例外はありますが、一般的に先進国の企業というのは既に豊かな社会を更に豊かにさせることで収益を得ています。一方で、社会起業家の場合はフローレンスが病児保育の問題解決に取り組んだり、ビッグイシューがホームレスの問題に取り組んだり、マイナスの社会問題をプラスに変えながら収益を上げています。そのため通常の企業より「共感性」が違います。儲かるなら、既に他の企業がやっているところですが、なかなか儲からないニッチな市場で、少しでも収益を上げようと苦労されています。その社会的なミッションに共感する人が、何か手伝いたいと思って集まってくる。
     だから両者を対立させて考える必要は無いかと思います。社会起業家とは最初から名乗るものではなく、結果論でしょう。山口絵理子さんや駒崎弘樹さんなどにお会いしたことはありますが、社会起業家だと名乗っている人は少ないですし。

    社会起業家を支援するアショカ財団の評価指標の1つに

    政策として反映させること

    があります。

    社会起業家と呼ばれる人たちは、利益目的のためだったら別のことをやっているでしょうし、社会的ミッションが達成されればたとえ企業自体が潰れてもそれで満足なのだと思います。優秀な方も多く、お金を貰いたければ、一般企業に行ってかなりの給料をいただけるでしょうし。

    投稿者: としみつ

  • とても興味深い内容なので、コメントさせていただきます。

    私も社会起業家という言葉に違和感を持っていましたが、最近では、「拝金主義の起業家」に対するアンチテーゼなのではないかと考えています。シュンペーターは起業家(アントレプレナー)が社会にイノベーションを起こすことで経済を発展させると論じましたが、そのような起業家が少ないことが「社会起業家」という造語を生み出したのではないかと思います。
    造語を生み出すのはメディアが中心となっていると思いますが、結果的に言葉の重みを失わしめてしまっている起業家そのものにも問題があると思っています。一起業家として、真摯に受けとめています。
    ちなみに、渋沢栄一氏が「会社」という言葉を作ったと聞いた頃がありますが(当時のCompanyの和訳は「商会」だった)、「社会」をひっくり返すと「会社」になります。もともと日本の会社は社会と不可分なはずです。私はそもそもCSRという概念そのものにも違和感を感じています。我々の世代で変えて行かなくてはならないと考えています。

    投稿者: 高橋信也

  • 初めてコメントさせて頂きます。
    私はそもそも経済、なかんずく貨幣経済というものは、自分以外の誰かの期待に応える事によって、自らの考えや思いを充足するために生み出された「欲求充足のプラットフォーム」だと考えています。

    起業家であれ、社会起業家であれ、貨幣経済のプラットフォームを使う人というのは、自分の中に満たしたい思いがある人であり、この世界でその思いを満たすために「もっとも普及した方法として」貨幣経済という仕組みを利用するだけなのだと思います。

    そして、その仕組みの使い方の中で現時点もっともメジャーで効率的なやり方が会社をつくる、ということなのではないかと思う次第です。

    故に、私の中では元より起業家も社会起業家もありません。

    そこにはただ何らかの「満たしたい思い」を持った人が居るだけで、その思いが時に社会貢献であったり、時にある財やサービスの実現や提供であったり、時にお金そのものを得たいという気持ちであったり、というだけだと思うのです。

    一つの意見として、いかがでしょうか?

    投稿者: Shohei

  • 先ほど堀さんのtwitterに登録したところで、コメント見てこちらにとんで来ました。

    欧米諸国を最近よく訪問するのですが、
    彼らは、チャリティの世界であり、キリスト教の世界です。
    それが、社会の基盤になっている世界です。
    あの世界では、「公共」すなわち政府の仕事を、自然にチャリティが補足して、隙間を埋めています。
    政府ではなかなかやりにくいようなことを、代わりにやっているのです。
    例えば、ES細胞の倫理問題が議論になっていた間、
    欧米の幹細胞研究を資金的に支えてきたのはチャリティ資金です。
    (医学系チャリティや、患者団体など)
    しかし、日本にそういった役割を果たせるところがあるでしょうか?
    日本では、政府以外に資金を出しているところはありません。

    すると、日本で「社会起業」と呼ばれているものは、
    恐らく欧米とは異なるものを指すようになる可能性が高いと思われます。
    そういうことを、前提に議論してみてはいかがでしょう。
    日本における、
    「公共」「営利団体」「資金のある非営利団体(財団など)」「資金のない非営利団体」が絡み合って、
    どういう社会を作っていくのか。
    どれが、どこまでカバーすることになるのか、
    そういう全体地図を書いてみることで、
    みなさんの認識が集約してくるかもしれません。

    投稿者: minnmi8

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