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2012年10月11日 (木)

日本人・アジア人・地球人 日本統治時代の台湾を巡る旅~2)台南・八田ダム・高雄の風景

台湾二日目。早起きして、タクシーで台北駅へ。そこで、予約済みのチケットをピックアップして、台湾高速鉄道に搭乗した。外観及び中身とも、新幹線そのものだ。ツイッターするためにiPadを載せたトレイも、日本のとまるで同じだ。これから台南駅まで1時間40分。福岡から鹿児島みたいなものだ。

台湾高速鉄道が静かに走り始めた。板橋駅まで地下を走り、その後地上に出る。団地風の建物が立ち並ぶ中に、椰子の木などの熱帯風植生の緑が、顔を出す。熱い烏龍茶をすすりながら、ヘッドホンでクラシック音楽を聞く。両脇に広がる景色を、車窓から眺める。五感をフル稼働中だ。桃園駅に到着。

新竹駅を過ぎると、田舎の風景に変わる。緩い丘陵に自然が残り、平地には田園風景が現れる。日本統治時代に、日本は農業指導に力をいれていたと言う。「武士道」で著名な新渡戸稲造も、後藤新平に招かれて台湾に駐在し、指導に勤しんでいたという。ちなみに今年は新渡戸稲造生誕150周年にあたる。

新台南駅に到着した。駅中は、モスバーガー、セブン-イレブン、回転ずしと日本風だ。タクシーで30分ほど走り、在来線の台南駅前のホテルにチェックインした。遅めの朝食を取り、一休みしてから、一泳ぎだ。プールは屋外。ちょっと水が冷たいけど、10月でも外で泳げるのは、新鮮な喜びだ。外出着に着替えて、ガイドさんと待ち合わせて、出発。せっかくの機会だから、台湾のことを多く吸収したい。

台南は、1624年からのオランダ統治時代、鄭成功時代、清の時代と日本統治時代まで、台湾の首都だった。「台湾の京都」とも言われている。まず向かったのは、その首都の中心地、赤嵌楼(せきかんろう)だ。オランダがつくったバロック風のお城を鄭成功が中国風に改築し、行政を司った場所だ。

そして、現存する世界最古の「孔子廟」へと向かった。中国本土の孔子廟は、文化大革命で破壊されてしまったので、今は台湾でしか見られないという。

その横には、日本がつくった武道館が威風を伴い立っていた。台南にも、日本統治時代の建物が数多く残っていた。州庁舎、警察署、婦人会館、博物館等が、今も使われていた。日本統治時代の建物は、赤レンガに白い石のツートーンで、とても品があり綺麗だ。これら明治の洋館風の建築様式を、「近代和風建築」として、もっと活用してもよいのでは、と素人ながら思ってしまう。

孔子廟の前の公園に、米軍が戦中に落とした不発爆弾の碑が立っていた。その当時、高雄や台南にも、米軍がよく爆撃にきていたらしい。お父様が中曽根元首相の部下だったというガイドさんの王さんが、そう説明してくれた。高雄港の船舶も200隻撃沈された、と。その当時の高雄は、重化学工業の集積地だった。石油化学コンビナート、セメント工場、肥料工場、造船等だ。

一時間ほど車に揺られて、烏水頭ダム(別名八田ダム)に着いた。烏水頭ダムは、1920年から10年かけてつくられたビッグプロジェクトだ。そのダムのお陰で、農耕に不適切だった嘉南平原の土地が、水田に変わったのだ。台南市、嘉義市、雲林県にまたがる広大な地域(15万ヘクタール)が農地になった。烏水頭ダム水系の灌漑水路の長さは、何と台湾本島を20周するほどだという。「ダムの結果、美味しい米が取れるようになったんですよ」と嬉しそうにガイドさん。台湾の稲作量が5倍以上となり、100万人以上が恩恵を受けたのだという。その大規模プロジェクトを指揮したのが、八田與一技師なのだ。

八田與一記念館にて、ビデオを見た。八田與一は、石川県出身で、東大を出た後に、台湾総督府に職を得て、その後半生、この地の役人として献身的に働いた。31歳の時に日本に戻り、妻となる外代樹とお見合いし結婚し、2人で台湾に住んだ。八田が貢献したのは、灌漑用水の整備で、最終的に行きついたのが、烏水頭ダムの計画だ。

八田は、このダム計画を進言し、当時のお金で5400万円かけてつくった。その当時の日給は一円の時代だ。この費用の3分の2を日本政府が賄い、残りを台湾総督府が賄った。10年間で、134名の死者を出した大規模な工事だ。

烏水頭ダムの慰霊碑を拝む。殉職者への慰霊文を八田與一が書き、日本人・台湾人分け隔てなく、亡くなった順番で、名前が刻まれていた。日本人の名前も多く含まれていた。バスがひっきりなしに、やってくる。台湾人ほぼ全員が知っているというこの日本人を、何人の日本人が知っているのだろうか。

八田與一は、1942年に東南アジアの水利調査を命じられ、大洋丸に乗船していた時に、米海軍の魚雷によって、死亡した。1945年9月1日に、妻の外代樹は、興一が生涯かけてつくったダムの放水口に身を投げて、帰らぬ人となった。二人のお墓は、ダムを見下ろす地に現地の人々により建てられた。

墓所に車で移動した。お墓は、ちょうどダムを見下ろせる小高い位置に建てられていた。二人の墓の前には、八田與一の銅像が立てられていた。この銅像は、芸術的価値があると思われるほど、独創的なポーズだ。地べたに座り、片足を前に出し、右手で頭を支え、考えているポーズになっていた。突っ立っているポーズが多い中、とても人間的な銅像だ。

銅像そしてお墓には、現地の方からと思われる花束が積み重なっていた。僕は、その前で合掌し、銅像を見ながら立ち止まり、思いにふけっていた。八田與一の顔を見ている、八田與一が、僕に訴えかけているようだった。「それで、君は何をするんだね」、と。

写真1.八田與一氏の銅像。花束があふれていた。
Photo_6

今、この地には、八田路と言う道の名前がある。日本人の名前を冠する道路が、台湾にあるのだ。戦前の日本の功績をこの目で見ることの重要性を改めて認識した。そして、車は高雄に向け、走りだした。

車の中で、ガイドさんに尖閣問題について聞いてみた。ガイドさんは、「台湾の親日意識は、全く揺らいでいない。あの漁船は、台湾の会社が1500万円寄付して、やらせたものだ。大陸からの取引があったのではないかと疑っている。台湾人は皆迷惑に思っているし、あまりニュースになっていない」と。

確かに、昨晩現地での「交流」のために訪問したクラブのお姉さんに、尖閣問題のことを聞いたら、「ニュースをあまり見ないから知らない。何かあったの?」と逆に質問を受けた。台湾人からすると、あれは中国大陸からのさしがねだ、という認識のようだ。

どうやら、いまだに本省人と外省人、北部と南部とでは意識が違うようだ。「南部は本省人が多く親日的だ。馬総統は、外省人だ。台北は、外省人の塊みたいな場所だ」と。「南部は、皆独立を求めている。李登輝先生は、尊敬されている」、と答えが返ってきて、北部では、逆の答えが返ってくる。

片側三車線の高速を走り、高雄へ。両側は、鬱蒼と茂った熱帯風の濃い緑がおおっていた。雨がぱらついてきたが、空はまだ明るい。平地に入ると、住宅街が目に入ってきた。遠くには工場の煙突が見える。高雄は日本が投資してつくった一大工業地帯だ。

高雄市街に入った。280万人の巨大都市だ。この都市は、日本統治時代前は、台南の補助港でしかなかった。日本統治時代に、一大都市として成長した。蓮池の龍虎塔から半屏(はんぴょう)山をみると、その山の高さに負けずと劣らない高い煙突がある。日本海軍が製油所をつくり、今も使われているのだという。煙突の上から炎が見えた。

海軍宿舎だった場所の横を通過する。今も住宅街として使われるこの地には、当時海軍の兵士達が住んでいた。中曽根元首相もここに住んでいたと言う。寿山(ことぶきやま)の麓にあるセメント工場跡地を通過する。ここは、戦前は浅野セメントだった。戦後は蒋介石に没収され、台湾セメントになった。

旧高雄駅を訪問する。今は博物館として改装された駅は、70年前の姿そのままだ。古いセメント製の金庫もそのまま設置されていた。ホームの方に出ると、蒸気機関車が展示されていた。旧線路の跡は、公園として整備されており、家族連れが犬を遊ばせ、子供達が凧を上げ、ボール遊びをしていた。

写真2.旧高尾駅のレール跡地で遊ぶ子供達
Photo_7

線路の上に腰掛けると、70年前の情景が浮かんでくる。蒸気機関車の「ポー」と言う音までが聞こえてきそうだ。ここが台湾縦断鉄道の終着駅だ。その駅の横に、高雄港が整備され、産業促進がなされた。都市計画は、総統府が中心に担い、八田與一の様に、人生をかけて台湾のために尽力した優秀な役人がいたのだ。

遠慮気味にガイドさんに聞いてみた。「台湾人は、日本の統治時代のことをどう思っているのでしょうか」と。「ありがたく思っていますよ。これだけの鉄道を敷き、港湾を整備して、産業の礎を築いたのですから」との返事が返ってきた。あたりは夕暮れ時だ。子供達が楽しそうに線路をまたぎ遊んでいた。

旧高雄駅を後にして、フェリーに乗り、旗津島に向かう。日本がつくった埠頭から小さな艀(はしけ)のようなフェリーが、ゆっくりと離れる。真ん前に陣取り、高雄の黄昏時を楽しむ。あたりにはまだ明るさが残るが、全ての建物には灯りが灯っていた。5分少々で、全長十数キロの細長い旗津島に着いた。

1673年に建立した、台湾最古の道教のお寺(廟)をお参りする。歩行者天国の喧騒を抜けて、海鮮料理に舌鼓を打つ。ここでは全ての食材を自らが選び、調理してもらう。エビ、あさり、蒸し魚、ワラビの炒め物等だ。台湾製のパイナップル味ビールの瓶を、自らが取り出し、飲みほした。

食後に、旗津島を横断する。と言っても全長15km、幅は300m程度の洲なのだ。向こう岸の海岸にたどり着いた。砂浜に入り、台湾海峡の水に触る。暖かい。ガイドさんによると一年中泳げるのだと言う。昼間のプールよりも圧倒的に暖かい。

砂浜には、爆竹が鳴り響き、屋台や出店が立ち並ぶ。毎日がお祭りの雰囲気だ。子供達に遊び道具のお土産を買い、来た道を戻った。フェリーに乗り、台湾本島に戻る。夜景と潮風を楽しみ、車に乗り、台南のホテルへと向かった。

高雄の旧州庁舎(現裁判所)の前を通過し、高尾市街へ。高雄は、札幌の都市計画を模したので、碁盤の目の様に、南北・東西へとまっすぐに道が走る。双方とも1から10路と名がついているし、道幅も広く、走りやすそうだ。

台湾を縦断する高速1号線に乗る。片側4車線だ。並行して走る高速2号線にも3車線あると言う。まさに、台湾の動脈だ。台湾はインフラが整っているし、低い法人税(20%未満)、加速度償却等の優遇税制があるために、製造業が強い。

明日は新竹を訪問し、今の台湾を視察する予定だ。ガイドさんにホテルで別れを告げて、明日に備えて、早めに就寝することにした。


2012年10月10日
自宅にて執筆
堀義人

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コメント(3)

  • 八田興一氏は素晴らしいですよね。今年は八田技師没後70周年で、台北駐日経済文化代表処(台湾大使館)では、2週間にわたり、「八田興一氏の業績」の展示会が行われていました。
    http://www.taiwanembassy.org/JP/ct.asp?xItem=278764&ctNode=3593&mp=202

    書籍「台湾を愛した日本人(改訂版) -土木技師 八田與一の生涯」という本があります。この本は台湾の日本人学校に教師として赴任された方が、なぜ台湾現地ではこんなにも尊敬を受けている日本人が、日本国民にはほとんど知られていないのかといった、日本の戦後教育体制に対する疑問、義憤から書き起こされたものです。全くその通りです。

    戦前の日本には世界に誇るべき、そして子供達が知るべき立派な日本人が沢山いたにもかからず、現在の日本の学校では全く教えません。我々、そして子供たちが立派な先人について知り、このような先人に続かなければならないと決意すれば、日本は絶対に良くなると思っています。

    投稿者: T.Kawaguchi

  • 心に刺さるお話ですね。
    堀さんが出会われたガイドさんなど、台湾(本省)には、感謝の念を正しく伝えられる方々がいらっしゃるんですね。

    喉もと過ぎれば熱さ忘れる…そうならないために、台中で80年以上前の出来事を今でも語り続ける校長先生について書かれたブログを思い出しましたので下記に引用します。
    ~~~~~
    薹中市立新社高級中学(高校)では、1930年に豪雨のため増水した川で溺れそうになっていた生徒たちを助ける為に水死した日本人の山岡栄先生(享年29歳)を称える為に、地道な活動を続けているとのことでした。子供達に「山岡先生碑」の絵を書かせたり、毎年お参りに行ったりしているそうです。(松田公太氏のブログより)
    ~~~~~


    投稿者: Hiromi.T

  • 台湾の高速鉄道、新幹線を模して作られているならとても乗り心地よかったでしょうね。韓国旅行をした際にKTXに乗りましたが、とても窮屈で乗り心地が悪かったです。日本の新幹線の乗り心地の良さを再認識しました。座席周辺はスーツケースなんかを近くに置ける広さもなく、車両の端にスーツケースなどの大型荷物を置く場所が別にありました。多分少しでも乗客を詰め込もうとしたからでしょう。韓国は高速鉄道を作るに当たり日本の技術を取り入れるべきでしたね。

    投稿者: 如月

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