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2012年10月11日 (木)

日本人・アジア人・地球人 日本統治時代の台湾を巡る旅~1)台北の風景

朝7時に自宅を出て、羽田空港に向かう。朝9時前の台北行きフライトに乗り、台湾へ。これから2泊3日の台湾出張だ。YPO(Young President Organization)という若手の経営者団体の同期の仲間が、50歳になるのに合わせ、卒業旅行をすることになった。

昼前に台北に着いた。気温は30度近くて、まだ暑い。仲間とともに車を相乗りし、ホテルでチェックイン後にお茶をしながら談笑した。目的が親睦だ。だから、まったりとした雰囲気の中で、中国茶を飲みながら、ただ語り合うことが重要なのだ。サンヨー食品の井田さん、とんかつの「和幸」の経営者と先ずは3人とで親睦。ちなみに、今回は総勢11名だ。

午後1時に、 ロビーで市内観光のガイドさんと待ち合わせた。後発組の仲間もホテルに到着していた。他の仲間は皆B級グルメツアーに行く計画だが、僕は観光することにした。なぜならば、尖閣諸島の問題で、台湾と日本との関係が微妙になりつつあった。そこで、「台湾と日本」というテーマで台湾を回りたくなったのだ。

車の中から、旧帝大の台湾大学医学部、旧総統府の公邸(現迎賓館)を眺める。すると目の前に威厳ある、どでかい建物が目に入った。旧総統府である。今も、台湾総統が執務しているらしい。赤い煉瓦で壁面が装飾されていた。その旧総統府の横には、日銀に似た台湾銀行の建物だ。全て日本統治時代からのものだ。

10月10日の国慶節(中国の建国記念日。今年で101回目)を直前に控え、総統府の目の前で、何やら式典の準備をしていた。その近くにある、国立台湾博物館前で下車し、中に入った。この博物館は、1908年に台湾南北縦貫鉄道開通を記念して、台湾総統府博物館として創立されたものだ。明治人の気概を感じる。

ガイドさんによると、故宮博物院に行く人はいても、この国立博物館に行く日本人はいない、と。だが、この博物館こそ、台湾における日本を実感できる場所なのだ。3階に、二人の偉大な日本人の銅像が展示されているのを発見し、感動した。その二人の日本人とは、児玉源太郎と後藤新平だ。

児玉源太郎は、あの203高地奪還の戦略を練り、遂行した指揮官だ。後藤新平は、関東大震災後の東京のグランドデザインを創った人だ。この博物館は「児玉総督後藤民政長官記念館」と呼ばれていた。なぜか? 1906年に、第四代台湾総督だった児玉氏が7月に急逝し、9月に後藤氏も日本へ転任となったからだ。2人とも台湾の発展に貢献されたのだ。

台湾に残された人々が一念発起し、お二人を記念するものをつくるために寄付を募り、完成させたのが現在地のこの建物だ。1915年のことだ。1908年に創建された博物館の展示品はこちらに移設された。当時より、お二人のほぼ等身大の銅像がロビーの両脇に設置されていたのだが、中華民国が戦後接収した際に、二人の銅像は撤去され収蔵品になっていた。

2008年の博物館建築100周年の際に、その二人の銅像を展示することにし、今に至っているのだという。3階の片隅とは言え、歴史をそのまま残し、今も綺麗に展示してくれていることに対し、台湾の皆様に感謝したい。僕は、児玉源太郎、後藤新平、双方を尊敬しているから尚更そう思えてくる。

写真1:児玉源太郎の銅像
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観光ルートにないところばかりを要求されて、戸惑うガイドさんを尻目に、日本統治時代の台湾探索の旅は続く。台北当代芸術館(旧建成小学校)の建物を見物し、中山堂(旧台北公会堂)に到着。1936年に建てられものが今も使われている。ガイドさんによると、「中山」とは孫文を意味し、「中正」とは蒋介石を指すらしい。どの都市に行っても中山、中正を付けた通りを目にするのは、そのためだ。

ここ中山堂で、戦後日本から中華民国への引き渡し式典のようなものが行われたようだ。外に掲げられた「日本投降式典」と記載された写真には、日本人や連合国らしき人々が会議をしており、二階席からは米国と英国の国旗がかかっていた。ホールの中に入り、静けさの中でもの思いにふける。この公会堂で、戦前数多くの公演等が開かれたのであろう。三階のレクチャールームは、畳の上に机が設置されていた。所々で日本を感じることができた。

二二八和平公園にある台北二二八記念館を訪問した。1947年にタバコ販売をしていた中年女性が射殺され、それを見た民衆が役人と衝突した。民衆が、ラジオ局を使ってその模様を全土に伝えたところ、全台湾で民衆(戦前から台湾に住んでいた本省人)が蜂起した事件だ。台湾全土で2万8千人が虐殺された。この二二八記念館は、台北放送局の建物を改築したものだ。

二二八記念館には、虐殺された人々の名前と顔写真そして証言が記録されていた。イスラエルのホロコースト博物館を思い出した。二二八事件に関しては、台湾内でも以前は語ることが禁じられたのだが、50年経ってやっとオープンにできるようになったのだと言う。

記念館の中を一通り観て回った後に、日本語のパンフレットを手に取った。すると、老人がニコニコしながら、僕に日本語で語りかけてきた。ボランティアガイドの陳信深さんだ。陳さんからその当時の状況を、日本語で直に聞くことができた。陳さんの叔父さんは、嘉義市の警察のトップであった。だが、二二八事件を取り締まらなかったという疑いをかけられ、事件後に捕まり、駅前で銃殺されたのだという。

実際の蜂起による銃撃死者以外に、陳さんの叔父さんのように、事件後に捕まり銃殺、或いは暗殺された知識人が多くいた様だ。「日本が育てた知識人が、数多く殺されてしまった」と陳さんは、嘆いていた。

「日本は、台湾に5つの重大な貢献をしてくれた」と陳さんは、教えてくれた。

1)衛生:それまでは、不衛生で伝染病が多かったが、乃木希典総督時代に東京大学医学部を台北に持ってきてくれて飛躍的に台湾の衛生が向上した。

2)教育:日本統治時代以前では教育を受けていたのはたったの3%だったが、終戦時には97%に跳ね上がった。

3)交通:日本統治時代に台北から台南そして、さらに北上してほぼ山の手線の様に台湾を循環できる交通網を整備してくれた。

4)経済:ダムを建設するなどして、電力を確保し、製糖工場、石油化学工場、セメント工場を建設するなど経済の基盤を作ってくれた。

5)農業:八田ダムの建設を筆頭に灌漑用水を整備し、今残る灌漑の2/5は、日本が整備したものである。

「本省人は、皆日本の貢献に感謝している」。陳さんは続けた。「台湾をその前に統治したオランダは、400年前に台湾に来たが、何もしてくれなかった。オランダがしたのは、税金をとり、貿易をしただけだ。その違いは歴然としている。だから、台湾は親日的で、東日本大震災の時には、皆で寄付をした」。僕は、そのお言葉に対して、「日本国民は皆台湾人に感謝をしています」とお伝えした。

陳さんは続けた。「尖閣諸島の問題で、15%の外省人が台湾人を代表しているかのように振る舞い、騒ぎだし、日台関係を壊しているのが、悔しくて仕方が無い。だからこそ、ボランティアとして、歴史の証人として語りべの役を引き受けているのだ」と。昭和6年生まれの陳さんのお言葉に、帽子をとり深々と一礼し感謝申し上げた。非常に心温まる話だ。

写真2.ガイドの陳さん。左手で指差している人が、陳さんの叔父さんだ。
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次に向かったのが、康楽公園だ。ここは、戦前は日本人墓地だった。乃木希典3代目総督のお母様や明石元二郎7代目総督の墓所があった場所だ。明石7代目総督は、故郷の福岡で死去するものの、本人の生前からの希望でこの地にお墓をつくり、永眠したのだ。1945年に主権が中華民国に移行した後にお墓は撤去され、住居が立ち並んでいたものを、陳水扁氏が市長の時に整備したものだ。

広い公園の前に大小の鳥居が立っていた。日本以外で鳥居を見るのは、珍しい。鳥居の前で、一人ベンチに座り、佇んだ。台北は、夕暮れ時だ。空は厚い雲で覆われ、あたりから光を奪いつつあった。道端には街灯がともり始め、行き交う車のヘッドライトが点灯していた。子供達が、墓地だった公園でサッカーを楽しみ、犬と戯れていた。

公園で遊ぶ台湾人の子供達が、鳥居の柱の間をゴールにしてサッカーを楽しんでいた。不思議な光景だ。小さな鳥居の上部の両端は時を経て折れてしまい、鳥居の形が漢字の「円」の字になっていた。その横に大きな鳥居が立ち、その間に明石総督に関する碑が無造作におかれていた。子供達は楽しそうだった。

写真3.康楽公園の鳥居をゴールにして遊ぶ台湾の子供達。
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歩いてホテルに戻り、部屋でシャワーを浴び、外出の準備をした。夕食時に、フカヒレを食べながら、11人の仲間たちと思いっきり談笑した。そして、二次会は、現地のクラブで地元の人々との「交流」を楽しんだ。


2012年10月10日
自宅にて執筆
堀義人

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コメント(2)

  • 堀様。お帰りなさい。コラム拝見いたしました。FaceBookにもメッセージを感想を送信させて頂きましたが、私は若き日に乃木希典氏を題材にした「殉死」他、数冊の書物を読みましたが、何故、二百三高地奪回の為に同じ戦略を何度も何度も繰り返し、数万という日本兵の犠牲者を出したのか、とても疑問を抱いていました。大本営のトップは確か薩摩閥と長州閥の(西郷さんの親戚に当たる大山巌さんと長州の東郷さんだったと記憶してますが)もう少し早く児玉源太郎さんを派遣しても良かったのではないかと、今でも思います。児玉さんは長州閥の代表としてじれったくなり、自ら戦地へ赴いたので、派遣という言葉は当たりませんが、あれだけの戦死者を出した戦略ミスと乃木さんの固執する心は責任が重いと思います。あくまで、私感ですので、乃木さんのご親族の方には申し訳ありませんが、ロシアのトレチャコフは乃木さんの戦略変更の無さに驚いていたのではないかと思うほどです。旅順を覗けば、陸では黒田氏、秋山氏がコサック相手に善戦しており、海では秋山、速見両氏が善戦していた。私は乃木さん当時の戦史では考えられない犠牲者をだしてまで、乃木さんを交代させなかったのは、薩摩閥と長州閥の威厳や影響力、そこれからの執政に対する薩長の駆け引きが原因ではなかったかと、推測しています。ただただ同じ肉弾戦の戦史を繰り返し、数万という犠牲者を出したことは、私も若かったからでしょうか、書物を読んでいて本当に憤りを感じました。私は児玉源太郎氏の英断によって怒りが収まりました。しかし、日本は決して戦争が強かった訳ではないと思います。最後は資金繰りに苦しみ、ロシアの自国の革命という要因と外交がもたらした勝利ではなかったかと思います。ロシアを敵視する諸外国は小さな日本という国の勝利を大喝采しましたが、その後、日本が、調子に乗って帝国主義に走り出したことは愚かであったと思います。最後に児玉源太郎氏、秋山兄弟は私は誇りに思っています。兄、好古は逝去された時、「最後の侍が亡くなった」と惜しまれ、弟、実之は気が狂うほどの熱意と知恵と戦略で国を背負って戦った。東郷元帥の選手を大切にし、一心に信頼できる精神力も凄いものだが、作戦と決断を背負って遂行した実之の心労はいかばかりであったかと思う。こういう時代が、また背景が、「特に器の大きい上司やミドル」が、実践という本舞台で志の大きい若者を育んでいくのだと強く感じた。そういう意味では人材育成は、トップやミドルの度量が後世を決めるのではないかと痛感しました。一気に入力した為、誤字脱字がありましたら失礼致します。和賀公威

    投稿者: 和賀公威

  • 台湾紀行楽しく読ませて頂きました。小生も大阪ガス勤務時代の1994年頃から2000年頃にわたり、毎年一回は訪台していました。大学での講義等でしたが。
    最後は少し飛んで、2005年で、高雄の高雄科学技術工科大学でのシンポでした。
    それ以来7年近くになりますが、めっきりご無沙汰です。訪台の折りでは昔読んだ司馬遼太郎の「台湾紀行」も参考になりました。大変面白い本ですね。
    堀さんの報告を機会に、「日本との関係の旅」を復活させようと思っています。
    こんな時代です、台湾・インド・ミヤンマー・タイ(ASEAN含む)等親日国との関係を更に強化する必要がありますね(官民一体で)。
    植民地政策も色々あり、韓国では同じ事をやっても、最悪と認識されます。太平洋国家の国民と大陸国家で何100年以上にわたり、隣国の大国に脅かされて来た国民のDNAの違いかと思います。
    18世紀、英国のインド支配はインダス文明以来続く、インドの伝統的綿織物を、武力と経済生産性(産業革命)を活用して、破壊してしまいました。21世紀はインドの時代ですが、結果100年は遅れてしまったと考えられます。一方日本の植民地政策は逆です。植民地政策は悪いことですが、当時の世界情勢など歴史的観点を加味して考え、世界貢献を踏まえ、21世紀につなげて行くことが大切かと思います。
    これからもグローバルなご活躍を期待しております。

    投稿者: Mr KEN

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